Friday, March 03, 2006

真実(ほんと)

「そこだよ」と記者は言葉を続けた。「細君が有れば寂しくは無いだろうか。細君が有って寂しくないものなら、僕はこうやって今まで独身などで居やしない――しかも、新聞屋の二階に自炊なぞをして、クスブったりして――」 西は話頭(はなし)を変えようとした。で、こんな風に言ってみた。「男が働くというのも、考えてみれば馬鹿々々しいサ。畢竟(つまり)、自然の要求というものは繁殖に過ぎないのだ」「そうすれば、やっぱり追い使われているんだね。鳥が無心で何の苦痛も知らずに歌うというようには、いかないものかしら……」と記者が言った。「鳥だって、み給え、対手(あいて)を呼ぶんだと言うじゃないか。人間でも、好い声の出る者が好い配偶を得るという訳なんだろう……ところが人間の頭数が増えて来たから、繁殖ということばかりが仕事で無くなって来たサ――だから、自分の好きな熱を吹いて、暮しても、生きていられるのが今の世の中サ」「何だか僕等の生涯は夢らしくて困る」「いずくんぞ知らん、日本国中の人の生涯は皆な夢ならんとはだ」 三吉は黙って、この二人の客の話を聞いていた。その時記者は沈んだ、痛ましそうな眼付をして、西の方を見た。西は目を外(そら)した。しばらく、客も主人(あるじ)も煙草(たばこ)ばかり燻(ふか)していた。 お房が覗(のぞ)きに来た。「房(ふう)ちゃん、被入(いら)っしゃい」 と西が見つけて呼んだ。お房は恥かしそうに、母のかげに隠れた。やがて母に連れられて、菓子皿の中にある物を貰いに来た。「お客様にキマリが悪いと見えて、母さんの後であんがとうしてます」と言ってお雪は笑った。 西は二度も三度も懐中時計を取出して眺めた。「君は何時(なんじ)まで居られるんだい。なんなら泊って行っても可いじゃないか」と三吉が言った。「ああ難有(ありがと)う」と西は受けて、「今夜僕の為に歓迎会が有るというんで、どうしても四時半の汽車には乗らなくちゃ成らない。今夜はいずれ酒だろうから、僕はあまり難有くない方だけれど――それに、明日はいよいよ演説をやる日取だ」「それにしても、まあユックリして行ってくれ給え」「あの時計は宛(あて)に成らない」と西は次の部屋に掛けてある柱時計と自分のとを見比べた。「大変後れてるよ」「アア吾家(うち)のは後れてる」と三吉も答えた。 お雪はビイルに有合せの物を添えて、そこへ持って来た。「なんにも御座いませんけれど、どうか召上って下さい」と彼女が言った。三吉も田舎料理をすすめて、久し振で友人をもてなそうとした。「こりゃどうも恐れ入ったねえ。僕は相変らず飲めない方でねえ」と西は言った。「しかし、気が急(せ)いて不可(いけない)から、遠慮なしに頂きます」 三吉は記者にもビイルを勧めた。「長野の新聞の方には未だ長くいらっしゃる御積りなんですか」「そうですナア、一年ばかりも居たら帰るかも知れません……是方(こっち)に居ても話相手は無し、ツマリませんからね……私は信濃(しなの)という国には少許(すこし)も興味が有りません」こう記者が答えた。 西はめずらしそうに、牛額(うしびたい)と称する蕈(きのこ)の塩漬などを試みながら、「僕は碓氷(うすい)を越す時に――一昨日(おととい)だ――真実(ほんと)に寂しかったねえ。彼方(あそこ)までは何の気なしに乗って来たが、さあ隧道(トンネル)に掛ったら、旅という心地(こころもち)が浮いて来た。あの隧道を――君、そうじゃないか――誰だって何の感じもしないで通るという人は有るまいと思うよ。小泉君が書籍(ほん)を探しに東京へ出掛けて、彼処を往ったり来たりする時は、どんな心地だろう」

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