Friday, March 03, 2006

わざわざ難有う

 客を見送りながら、三吉は名残(なごり)惜しそうに停車場まで随(つ)いて行った。寒く暗い停車場の構内には、懐手(ふところで)をした農夫、真綿帽子を冠(かぶ)った旅商人、それから灰色な髪の子守の群などが集っていた。 西と三吉とは巻烟草(まきたばこ)に火を点けた。記者もその側に立って、「僕が初めて西君と懇意に成ったのは、何時(いつ)頃だっけね。そうだ、君が大学へ入った年だ。僕はその頃、新聞屋仲間の年少者サ――二十の年だっけ――その頃に最早天下の大勢なんてことを論じていたんだよ」「今は余程(よっぽど)分っていなくちゃならない――ところが、君、やっぱり今でも分らないんだろう」と西が軽く笑った。 記者は玉子色の外套の隠袖(かくし)へ両手を入れたまま、反返(そりかえ)って笑った。やがて、すこし萎(しお)れて、前曲(まえこご)みに西の方を覗(のぞ)くようにしながら、「その頃と見ると、君も大分変った」 と言われて、西は黙って記者を熟視(みつめ)た。三吉は二人の周囲(まわり)を歩いていた。 三人は線路を越して、下りの汽車を待つべきプラットフォムの上へ出た。浅間へは最早雪が来ていた。「寒い寒い」と西は震えながら、「僕は汽車の中で凍え死ぬかも知れないよ」「すこし歩こう」と三吉が言出した。「そうだ。歩いたら少しは暖かに成る」と言って、西は周囲(あたり)を眺め廻して、「この辺は大抵僕の想像して来た通りだった」 三吉は指(ゆびさ)して見せた。「あそこに薄(うっ)すらと灰紫色に見える山ねえ、あれが八つが岳だ。ずっと是方(こっち)に紅葉した山が有るだろう、あの崖(がけ)の下を流れてるのが千曲川(ちくまがわ)サ」「山の色はいつでもあんな紫色に見えるのかい。もっと僕は乾燥した処かと思った」「今日は特別サ。水蒸気が多いんだね。平常(いつも)はもっとずっと近く見える」「それじゃ何ですか、あれが甲州境の八つが岳ですか――あの山の向が僕の故郷です」と記者が言った。「へえ、君は甲州の方でしたかねえ」と西は記者の方を見た。「ええ、甲州は僕の生れ故郷です……ああそうかナア、あれが八つが岳かナア。何だか急に恋しく成って来た……」と復(ま)た記者が懐(なつ)かしそうに言った。 三人は眺め入った。「小泉君」と西は思出したように、「君は何時(いつ)までこんな山の上に引込んでいる気かネ……今の日本の世の中じゃ、そんなに物を深く研究してかかる必要は無いと思うよ」 三吉は返事に窮(こま)った。「しかし、新聞屋さんもあまり感心した職業では無いね」と西は言った。「君は又、エジトルだって、そう見くびらなくッても可いぜ」と記者が笑った。 西も笑って、「あんなツマラないことは無いよ。み給え、新聞を書く為に読んだ本が何に成る。いくら読んだって、何物(なんに)も後へ残りゃしない。僕は、まあ、厭だねえ。君なんかも早く切上げて了いたまえ」「君はそういうけれど、僕は外に仕方が無いし……生涯エジトルで暮すだろう……これも悪縁でサ」と言って、記者は赤皮の靴を鳴らして、風の寒いプラットフォムの上を歩いてみた。 下りの汽車が来た。少壮(としわか)な官吏と、少壮な記者とは、三吉に別れを告げて、乗客も少ない二等室の戸を開けて入った。「この寒いのに、わざわざ難有う」 と西は窓から顔を出して言った。車掌は高く右の手を差揚げた。列車は動き初めた。長いこと三吉はそこに佇立(たたず)んでいた。

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