Friday, March 03, 2006

風邪(かぜ)

 お雪はすこし風邪(かぜ)の気味で、春着の仕度を休んだ。押詰ってからは、提灯(ちょうちん)つけて手習に通って来る娘達もなかった。お雪が炬燵(こたつ)のところに頭を押付けているのを見ると、下婢(おんな)も手持無沙汰の気味で、アカギレの膏薬(こうやく)を火箸(ひばし)で延ばして貼(は)ったりなぞしていた。 寒い晩であった。下婢は自分から進んで一字でも多く覚えようと思うような娘ではなかったが、主人の思惑(おもわく)を憚(はばか)って、申訳ばかりに本の復習(おさらい)を始めた。何時(いつ)の間にか彼女の心は、蝗虫(いなご)を捕(と)って遊んだり草を藉(し)いて寝そべったりした楽しい田圃側の方へ行って了った。そして、主人に聞えるように、同じところを何度も何度も繰返し読んでいるうちに、眠くなった。本に顔を押当てたなり、そこへ打臥(つッぷ)して了(しま)った。 急に、お房が声を揚げて泣出した。復(ま)た下婢は読み始めた。「風邪を引いてるじゃないか。ちっとも手伝いをしてくれやしない」 こうお雪が言った。お雪はもう我慢が仕切れないという風で、いきなり炬燵を離れて、不熱心な下婢の前にある本を壁へ投付けた。「喧(やか)ましい!」 下婢は止(よ)すにも止されず、キョトキョトした眼付をしながら、狼狽(うろた)えている。「何事(なんに)も為(し)てくれなくても可いよ」とお雪は鼻を啜(すす)り上げて言った。「居眠り居眠り本を読んで何に成る――もう可いから止してお休み――」 唐紙を隔てた次の部屋には、三吉が寂しい洋燈(ランプ)に対(むか)って書物を展(ひろ)げていた。北側の雪は消えずにあって、降った上降った上へと積るので、庭の草木は深く埋(うずも)れている。草屋根の軒から落ちる雫(しずく)は茶色の氷柱(つらら)に成って、最早二尺ばかりの長さに垂下っている。夜になると、氷雪の寒さが戸の内までも侵入して来た。時々可恐(おそろ)しい音がして、部屋の柱が凍割(しみわ)れた。「旦那(だんな)さん、お先へお休み」 と下婢は唐紙をすこし開けて、そこへ手を突いて言った。やがて彼女は炉辺の方で寝る仕度をしたが、三吉の耳に歔泣(すすりなき)の音が聞えた。一方へ向いては貧乏と戦わねばならぬ、一方へ向いては烈(はげ)しい気候とも戦わねばならぬ――こういう中で女子供の泣声を聞くのは、寂しかった。三吉は綿の入ったもので膝(ひざ)を包んで、独(ひと)りで遅くまで机の前に坐っていた。 三吉が床に就く頃、子供は復た泣出した。柱時計が十二時を打つ頃に成っても、未だお房は眠らなかった。 お雪は気を焦(いら)って、「誰だ、そんなに泣くのは……其方(そっち)行け……あんまり種々な物を食べたがるからそうだ……めッ」 いよいよお房は烈しく泣いた。時には荒く震える声が寒い部屋の壁に響けるように起った。母が怒って、それを制しようとすると、お房は余計に高い声を出した。「ねんねんや、おころりや、ねんねんねんねんねしな……」とお雪は声を和(やわら)げて、何卒(どうか)して子供を寝かしつけようとする。お房は嬉しそうな泣声に変って、乳房を咬(くわ)えながらも泣止まなかった。「母さんだって、眠いじゃないか」 と母に叱られて、復たお房はワッと泣出す。終(しまい)には、お雪までも泣出した。母と子は一緒に成って泣いた。

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